私が子どものうちに知らなくても困らなかったこと。パソコンの使い方だ。
これを読んでくださっている方にパソコン初心者の方はほとんどおられないと思う。だから、ピンとこないかも知れない。ただ、10年以上前から漂っていたパソコンを持っている・使えるのが主流であり、持っていなければ不便で大変で困るという「常識のようなもの」が、すっかり定着してしまっているような気がしてならない。果たして、本当にそうだろうか。
Windowsの台頭で、新手の怪獣のようにパソコンガーパソコンガーと叫ばれていた時代。私はパソコンを持っておらず、学校のパソコンの授業も今ほど盛んに行われていなかった。小学校時代のパソコン室での思い出といえば、オレンジや青に変色した『もののけ姫』を観たことと、小学校6年生のパソコンクラブくらいである。毎週木曜日5時間目に行われるクラブ(部活動)の授業でパソコンクラブに入ったが(4、5年生では迷わず音楽クラブを選んだ)、ペイントで絵を描くだけだったし、絵がからっきしな私はひたすらお気に入りのペンギンスタンプを押して遊んでいた。電源を押して起動させ、5センチの薄っぺらいフロッピーを入れて、ペイントを起動させる一連の流れを覚えた。
中学に入ると、同級生で、パソコンが家にあって操作もわかるという人が増えた。タイピングの早い人がいて、指先が繰り出す魔法のように思った。
高校でパソコンに触れたのは3年生のときだった。図書室に置いてある自由に使えるパソコンで、クラスメイトが見せてくれたBUMP OF CHICKENの「となりのトトロ」のフラッシュに爆笑した。また、使い方を簡単に教えてもらったが、見たいサイトのURLを直接入力するとき、「/(スラッシュ)」や「˜(チルダ)」の記号を自力で出せなかった。
誘われるままに参加した文芸同好会では、後輩くんが小説を自宅で活字にし、印刷して持って来ていたのが羨ましかった。原稿の手書き清書がつらくて、あまり作品を出せなかった。パソコンが使えない、タイピングもできないのは、ちょっとしたコンプレックスになっていた。
その後何となくWord講座を受けて、そこでやっとタイピングを覚えた。レポートを書くのに必要だと聞いて、パソコンを購入したのがこの頃だ。
使ってみてはじめてわかるもので、マイパソコンを持つまで必要がなかった。持っていないことで乗り遅れたような焦燥感がどこかしらにあったが、必要ないから持っていなかったまでだ。
ピアノを習っていたからか3ヶ月と経たずにブラインドタッチができるようになったし、友人とのチャットで鍛えられ、半年でチャットが滞らない程度に成長した。
パソコンは、使いながら少しずつ覚えていくのが一番いい。むしろこれまで持っていなくて良かったと思った。私のような何かにつけてのめり込みやすい人間は、依存症に陥りやすい。疑問に思ったことを、考える過程を飛ばして他人の回答に辿り着く。しかも、あたかも自分が考え出したように錯覚しやすい。つまり、非常に楽ができてしまう。だからこそ、中学生以前の低年齢からこのような文化に触れ、染まってしまうことに危惧を覚える。一定年齢に達するまで触れさせないか、もしくは考える習慣をしっかりと定着させるかのどちらかだ。
(もっと言えば、取り上げるのは簡単だが教えるのは難しい。手間を惜しんで安易なほうに流れがちな昨今の風潮もどうかと思う。)
パソコンを使いこなせるようになるには、必死に繋ぐよりも、パソコンに詳しい友人を作るほうが確実だ。実際私は、友人にたくさん教えてもらった。「わからない」と尋ねることもあるし、「面白いサイト見つけた」とあちらから声をかけてくれることもある。
変な先入観さえなければ、繰り返しやれば、基本操作はすぐに覚えられる。パソコン・インターネットで最も重要かつ難しいのは、情報の集め方だ。
母に教えていて思う。初心者は、どのキーワードをチョイスして組み合わせれば求める情報ページに辿りつけるのか、道筋がわからない。検討をつけるには経験を積むより他に思いつかない。けれど、試す前からわからないと諦めてしまう。
どんなキーワードを入力すれば良いか、どんなサイトを探し出せば良いかは、どんなタイトルの本を探せば良いかと同じだ。わざわざパソコンに限定しなくとも、それらの能力は養える。
洗濯機、冷蔵庫、テレビ、エアコン、パソコン、携帯電話……。文明の利器、こと電気製品においてはめざましく発達し、時代を経るにつれ必需品が増えた。みんな持っているから持っているのが常識とは思わず、選択肢のひとつに留まるべきではないだろうか。
興味深かったページのリンク:
プライベートでは10代はケータイ、大人はパソコンでサイト閲覧…サイト閲覧時間の変移をグラフ化してみる(2011年版情報通信白書より):Garbagenews.com
昨日の引退会見を見て、島田紳助氏の話術に心底感心した。
さすが名司会者。聞かせてくれる。同情する人も多かったのではないだろうか。
私の母は大阪のおばちゃんらしく、やしきたかじん氏、上沼恵美子氏、宮根誠司氏、そして島田紳助氏が好きである。「ファンとちゃう、番組が面白いから見てるんや」と言うけれど、冠番組はほぼ網羅している。そういうのをファンって言うんだと思うよ……?
……ので、私も番組を目にする機会があったのだが、紳助氏には「美学」があるらしい。近年それが前面に押し出されてきた。
その美学とやらを捻くれた私なんかが解釈すると、「悪っぽく見えるけれど実は良い人なんだよ」と自身を美化する、というか、周りの芸人たちが勝手に美化してくれる、そんな傾向だ。
一時期を境に、泣かせるような演出も多々見られるようになった。
人気も絶大で、恨みも買いやすい。賛否両論あるだろう。
私はテレビが寂しくなるなと思う(『開運!なんでも鑑定団』や初期の『ヘキサゴン』はなかなか面白かった)一方、何年も続いた紳助マンセー時代から久々の世代交代が起こるかと淡い期待も寄せている。
会見で言っていた内容だけで辞めるとは思えないので(何しろ自分の番組で食わせている後輩芸人たちをごまんと抱えている)、それなりに後ろ暗いところもあるのだろうと推測される(現段階では推測でしかない)。
なるようになる、のだろう。一般人がコメントする余地はここらで終点だ。
島田紳助氏引退や大阪・天王寺区で見つかった「一斗缶事件」の犯人逮捕の報道が繰り返しされる中、政治は大事な局面を迎えている。
民主党代表選、震災で有耶無耶になっていた菅直人氏の献金問題(北朝鮮の政治団体に多額の金が流れているという)、小沢一郎氏は処分よりもまず逃げずに事実関係をはっきりさせて欲しい。
中でも私が動向を気にしているものが、「人権救済法案(人権侵害救済法案)」である。
聞こえの良い名前で、人権を救済するのであればどんどん通したらいいと思うかも知れない。しかし実態は穴だらけ、抜け道だらけの法案で、様々な危険を秘めている。
国民の言論の自由にも深く関わってくる。ただでさえ下手なことを言うと批判される風潮があり、自粛もブームになったのに、これ以上無難な意見しか言えない世の中になるは御免蒙[こうむ]りたい。
人権擁護の法案は、小泉内閣のときに一度廃案になっている。民主党、社会民主党、日本共産党など野党が反対に回った。
今回検討されているのは、民主党が対案として出したものだ。
外国人の人権を守るのは結構なことだ。しかし、この法案は、客観的基準を持たない。重要な部分が白紙に近く、。
そんなはずがないと思うだろうか。「反日」を掲げる「日本人」がどれだけいることか。左翼の中の、一部の人たち。国会を陣取り、報道を陣取り、大変な権力を持って存在している。国民として目を疑う。それとも、実は国民ではない何かか。よくわからない。
大切なことなのに、東京都および大阪府の青少年健全育成条例(非実在青少年問題)のときと同様、テレビ報道がほとんどなされていない。我々国民は、また同じ轍[てつ]を踏まされるのか。
この法案で最も取り締まりやすいのはインターネットだと考えられる。インターネットはテレビや新聞各社から目の敵にされ、とライバル関係のようになっている。2002年の法案と違い、今回はマスコミが対象から外されている。癒着関係の下で作られたとしても不思議はない。
このようなネット上の片隅の小さな記事ですら、人権侵害として訴えられてしまう可能性がある(閲覧者数や影響力を考えるとわざわざ労力を割く可能性は低いが)。
何を犠牲にして何を得るのか、よく考えて欲しい。
※反対しておきながらこんなことを言うのも何だが、人権用語法案、人権救済法案に反対する人の中には偏って右寄りな方々がおられるため、意見を読むときは多少念頭に置くと良い。
ヒロシマの有る国で しなければならないことは
ともる戦の火種を 消すことだろう
上記は、「ヒロシマの有る国で」という歌のサビ部分だ。
切なく美しいメロディーに、戦争根絶の願いが込められている。
修学旅行の広島の平和記念公園で、学年全員で歌った。
三月十一日、東日本大震災の地震と津波により、福島第一原発が壊れ、放射性物質が各地に飛散・流出した。
原爆被害のあった唯一の国・日本で、最も起こってはならない、犯してはならない過ちである。
菅直人総理は脱原発を目指すと発言したが、すぐに内閣の方針ではなく個人の思いであると撤回した。
自然エネルギーの普及には比較的乗り気のようだが、脱原発は進んでいない。
浜岡原発を止めたことで国民は牙を抜かれ、むしろ世見の目が怖くて原発推進と言えない人々の追い風になった。
事故を起こした東京電力は手厚く守られ、「絶対に倒産しない会社」が出来上がりつつある。
ニュースで耳にする「脱原発を掲げる菅総理」のフレーズは、「あんこのないあんぱん」と同意義に聞こえる。
中身は空洞の、まさしくすっから菅。国民の機嫌取りと言われても仕方がない。
信用に足る言葉かどうか、見ていればおのずとわかる。
戦時中、勝てる見込みなどないとわかった後も、原爆を投下され敗戦を迎えるまで戦火の道を突き進んだ。
あの頃と今の、何が違うというのだろう。
身の回りはモノに溢れ、国家はすぐに大砲を取り出すこともなくなったが、本質的には何も変わっていない。
戦後といえど、まだ一世紀も経っていないではないか。
重大な事故を起こしてさえ、変わる兆しがないことが最も恐ろしい。
張りぼての形だけを見せて、お茶を濁しているようにしか見えない。
ブレーキのない車は簡単に人を轢き殺す。
今まさに、原発推進派と反対派の攻防が続いている。
戦中と表現してよいかもしれない。はっきりと目には見えない戦争である。
企業は資本主義に則りエネルギーの確保に尽力する。その過程で、原発をなくすわけにはいかない。
国は電力会社と手を組んで天下り先や票集めに執心する。
監視機能を担うマスコミはその役割を放棄し、力のあるほうに味方する。
人が利益を追い求めるのは当然のことである。しかし、彼らの正義は一体どこにあるのだろう。
昔は尊ばれた正義や秩序は、一体誰が食べてしまったのだろう。
自然エネルギーを開発していた人が圧力を受けていたというショッキングな話もある。
それは今もなくなってはいない。
成功例と言われた日本の社会民主主義は、民主主義のフリをした実質的な社会主義であった。
もはやお隣の中国を笑うことなどできない。
電気が悪いのではない。
時代が時代なら、石油だったり。石炭だったり、ガスだったりした。
それが今、たまたま「電気の時代」だっただけのことである。
エネルギーのあるところに、人も金も権力も集まってくる。物理の法則が社会にも当て嵌まる。
ヒロシマの有る国で、ナガサキの有る国で、フクシマのある国で。
繰り返さない決意と実行力。
早く目を覚ますべきだ。
出生前診断で異常が発見された際、人工中絶に踏み切ったとみられるケースが倍増しているというニュースがある。
出生前診断に関しては、しょうがい者差別につながるとの見方もあり、反対意見が出ている。
しょうがい者差別はもとより、社会的・制度的な不備から、しょうがいのある方々は、環境さえ整っていればしなくて済むはずの苦労を強いられている。その親ともなれば、なおのことである。
だからこそ、バリアフリーだの人権だのと叫ばれてきた。
けれど実情は、ほとんど進展していない。
「みんな(社会)はひとりのために」よりも「ひとりはみんな(社会)のために」を重んじる日本人的気質が福祉の面では大きく裏目に出ている。長い不況の影響もある。
しょうがいのある子どもを産み育てる大変さを思えば、異常が見つかっても中絶するな、なんていう強いことは、現状を見ればとても言えない。
(異常があろうとなかろうと、子を産み育てることは大変エネルギーのいることであり、様々な覚悟が必要となろうが、日本の社会において「みんなと少し違っている」ということは、大変な生きにくさを強いられる。)
一方で、人類は歴史の中で、個性化・多様化することで生き延び、繁栄してきた。
「十人十色」の社会は、強い社会なのである。
3月11日の震災で、効率のよさに特化した首都一極集中の危うさに人々は気づきはじめた頃だ。
そして、多種多様な人々みんなが生きやすい社会は、強い社会である。
出生前診断により中絶が増えて「異常があるならば産まない」という選択肢が当たり前になってくると、しょうがいのある方々は、ますますマイノリティ化していく。福祉も進まない。
いくら排除しても、ゼロになることは絶対にない。
インターネットでもしょうがい者に対する差別的な発言は多く見られる。
障害者なんて死ねばいい、福祉なんてなくてもいいと本気で考えている人に、批難を恐れず敢えて尋ねたい。
あなたは一生、怪我も病気もせずに生き続けられますか?
これまで誰にも迷惑をかけずに生きて来れたでしょうか?
自分自身の首を絞めていることに、まだ気づきませんか?
「しょうがい者を産まない社会」を選ぶことで、「みんなが生きにくい世の中」になることは間違いない。
ニュースで挙げられていたのは、ダウン症や胎児水腫であった。
生きられる命もあり、生きられない命もある。
それでも、小さいながらも生きようとしている命の芽を摘むことは、知らずのうちに声なき声が秘密裏に消されるということであり、うすら寒さを感じる。
メインストリームの利益のためには犠牲もやむを得ないという、エセ民主主義に支配された現代の構図が反映されている。
優生思想に基づき、優秀な人間の卵子や精子を売り買いする新たな産業が誕生したり、遺伝子を操作して優秀な子孫を残すといったSF的発想は、いずれも実現可能な技術になりつつある。
神への冒涜であるという非科学的な論拠を抜きにしても(私は非科学的な論拠を否定するつもりはない)、過ぎる優生思想は、思惑とは反対に、人類という種を衰退させると私は考えている。
人間のやることだ。どこかで歯止めをかけねばならない時代が、いつか必ずやって来る。
我々はそれを先延ばしにしているにすぎない。
先日、気になる話を又聞きした。
知り合いが妊娠し、産科に行ったときのこと。
最初のほうの検診で、医師にいきなり「数パーセントの確率でダウン症になる可能性があります。産みますか? 産みませんか?」と尋ねられ、面食らったそうだ。
その知り合いは元気な赤ちゃんを産んだが、知識もない初産の若い夫婦にそんなことを訊くのは酷ではないだろうか。
医師はそれで情報開示の責任を果たしたつもりかも知れないが、全く気持ちに沿っていない。
これは、医者・医療の暴走ではないだろうか。
病気や障害の予防に役立てる分にはいい。医療技術の恩恵だと思う。
出生前診断自体を否定するつもりはない。
だが、運用面が大変お粗末である。
たとえ数パーセントでも、絶対に嫌だそんな苦労は背負いたくないという人は存在する。
五体満足、完全で完璧な人間を産み育てたい。苦労云々を抜きにしても、子どもには幸せになって欲しいという親心が込められている。(それは、子どもの学力競争にも反映されているように思う。)
個人・家族の選択として、何ら責められるものではない。
しかし、そちらばかりに気を取られて、命の扱い方があまりにお粗末になっているのではないだろうか。
この少子化の時代に、是非一度、考えて欲しい。
銀杏の筋トレ日記
筋トレして、ウホッ! いい男……になっていく銀杏さんを見守ります。
職歴無しの高卒25歳が英語や他言語を勉強するブログ!
銀杏さんの外国語勉強風景。参考書の紹介が参考になりそうです。
これは、近い将来はじめようと思うブログの、試し書きである。
大きな穴があった。
とても大きな穴で、何でも通すという触れ込みだった。
物珍しくて、穴の向こう側を一目見ようとたくさんの観光客が訪れた。
向こう側は大変面白いと、評判はまたたく間に広がった。
向こう側に移り住む者も現れはじめた。
広々と使えて、真っ新[まっさら]な美しさ。
まるで理想郷のようだった。
向こう側への移住を大いに推[すす]めた。
そのうちに、余ったものを向こう側へ送りはじめた。
捨ててしまうにはもったいない。
不要になったものを投入していった。
仲間がたくさん増えて、ものが足りなかった向こう側の人々は、喜んで受け取った。
こちら側の人々はものをたくさん持っていたので、どんどん投げ入れた。
たくさん余っているもの、置き場所に困るもの、直接手で触れたら火傷[やけど]するもの。
たくさんたくさん、放り投げた。
向こう側の人々はいつのまにか反応しなくなっていた。
底が見えることに気づいているけれど、誰もやめない。